知足を知る。置かれたところで咲くこと。
2018年4月28日
昨夜は、昔の会社の同期会がありました。
私は仕事だったのですが、後半のクラスがクローズとなり(それはそれで涙)、横浜開催だったので少しだけ顔を出しました。
会費払っていないのに、残りものを食べるという図々しさ
みんな忙しくフルタイムで働き、家も近所というわけでもなく、子どもの年齢もバラバラ。
そう会えるわけでもないので、
「今終わった!顔だけ出してもよい?」
と聞くと、
「おいで、おいで!会いたい!!」
と言ってもらえたので。
この店、同系列が私の行っているヨガスタジオの傍にあるのです。
いつも横目で見ながら「美味しいのかな?入ってみたい」
と思っていたところでした・・・
みんなオーバー45からアラフィフです。
半分以上は頑張って辞めずに働いている。
辞めずに働いてきた同期は、子どもが小さくて家の中が自転車操業(お金は共働きであっても)て必死だった時代を通りすぎてきた。
子どもも大きくなってきて、これから自分の時間も使えるようになってきたというところだからでしょうか。
本当にみんな楽しそうでした。
私は、6年で辞めてしまったので同期会でみんなを見るとやはり輝いているキラキラしているように見えます。
「辞めないでいたらどうだったのかな?」
と思う自分も正直ある。
私も辞めたくて辞めたわけでもなかった。
でも続けられるほどの意志の強さがなかったせいもあったのですが。
人生って、「~時こうだったら?」
ということは常につきものなんですけどね。
でも逆に働きつづけている同期にすると、
「辞める時期を失った。」
「違うことをしている人生もあったのかな?」
と思えるらしい。
でも、どんなことであれそこで咲けているならいいのかなと思う。
ヨガでは”サントーシャ”=知足、満足
といいますが、「自分は足りている」という考え方があります。
今の自分を他人と、過去と比べる。
そうすると、今の自分を惨めに感じたり、楽しいことも楽しくなくなる。
不満を常に感じるようになるとおかしくなりますよということです。
勿論、努力や反骨精神を否定しているわけではありません。
ヨガにも”タパス”=苦行
”スヴァディアーヤ”=学習
など修練しなさいという考えもありますから。
でもそれはもっと幸せになるためであって、今ある幸せを否定したり、目を覆うためではないのです。
結局最後は、
「人間、ないものねだりなんだね。どんな人生も私の人生、言ったって仕方ないか(笑)」
となりました。
酔っぱらっているから同じことを10回くらいみんな話して結論がそうなる(笑)
ヨガの哲学って、結構日常で出てくる。
忘れがちだけど基本的なことなのです。